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第2話 愛の告白と死体の山

Author: なつめ
last update publish date: 2026-08-24 18:03:59

灰戸港の倉庫街には、銃声が消えたあとも金属の余韻だけが残っているようだった。鵜飼原継真は冷たい壁へ背中を預けたまま、目の前の少女から視線を外せずにいた。黒いセーラー服の上へ薄手のパーカーを羽織り、腰近くまで伸びた黒髪をまとめた姿は、夜更けのコンビニ前に立っていても不思議ではない。けれど右手には拳銃があり、足元には数分前まで継真を殺そうとしていた男たちが倒れている。その中心で少女だけが、初めて好きな菓子を見つけた子どものように頬を明るくしていた。

「これが恋なんですね」

少女はもう一度確かめるように呟いた。それから胸元へ当てていた左手を離し、ひどく真面目な顔で継真へ向き直る。

「お名前を教えてください。好きな人の名前を知らないのは困ります」

継真は答えなかった。代わりに抱えていた黒い鞄を身体の脇へ引き寄せ、少女との間に二歩分の距離を作る。さっき自分を助けたことと、安全な人間であることはまったく同じではない。むしろ複数の男をほとんど呼吸も乱さず倒した直後なのだから、警戒を解く理由は一つもなかった。

少女は拒絶されたこと自体には傷ついた様子を見せず、「あ、先に私が名乗るべきでした」と納得したように頷いた。

「洲脇雛菊です。雛菊は花の雛菊で、洲脇はちょっと書きにくいほうです。十八歳、高校三年生です。身長は百六十二センチで――」

「そこまで聞いてない」

「そうですか?」

雛菊は不思議そうに首を傾げた。継真は眉間を押さえたくなるのを堪えた。自分の唇にはまだ血が残り、腹部には殴られた鈍痛が沈んでいる。倒された男が呻いているのに、雛菊の自己紹介だけが学校の教室で交わされるものと変わらない調子だった。

「高校生が、何でこんなところにいる」

継真が質問を変えると、雛菊は「あ、それですか」と軽く言った。隠すべきことを尋ねられた者の間もなければ、嘘を組み立てる視線の揺れもない。

「仕事です。今夜、この辺りに荷物を持った人が来るので、運ぶ人と受け取る人を消してくださいって頼まれてました」

数秒、継真は言葉の意味を正しく受け取れなかった。雛菊の視線が自分の腕にある黒い鞄へ落ち、それから何でもないように顔へ戻る。その順番を見て、ようやく自分の中で答えが形になった。

「……運ぶ人って、俺か」

「たぶんそうですね」

「たぶん?」

「依頼の説明では顔写真も来てましたので、間違いないと思います」

雛菊はパーカーのポケットへ左手を入れ、スマートフォンを取り出した。画面を数度操作しようとしたところで継真の表情に気づき、指を止める。

「見ますか? 継真さんの写真、ちょっと写り悪いですけど」

名前まで知られていることに、継真の身体が反射的に強張った。右手に持った鞄の取っ手が掌へ食い込む。さっきまで追ってきた男たちとは別に、目の前の少女も最初から自分を殺すためにここへいた。その事実が、救われた直後の安心を根元から消した。

雛菊の右手にはまだ拳銃がある。継真は無意識に足の位置を変え、倒れている男と錆びたフォークリフトの間に逃げ道を探した。その動きを見た雛菊は一度瞬きをし、それから「あ」と小さく声を上げる。

「大丈夫です。もう殺しません」

「何で」

「好きになりましたので」

あまりにも即答だった。継真は一瞬だけ聞き間違いを疑ったが、雛菊は自分の答えに何の矛盾も感じていないらしく、むしろ嬉しそうに微笑んでいる。冗談として受け流せる軽さではなく、本気だからこそ話が通じない種類の笑顔だった。

「俺を殺す依頼だったんだろ」

「はい」

「その依頼を受けて、ここに来た」

「はい。受取人の方も一緒に、という内容でした。でも受取人の方はまだ来てませんね」

「それを、俺を見たからやめるのか」

「はい」

雛菊は三度目も同じ調子で頷いた。継真は少女の顔をじっと見た。ふざけているようには見えない。人をからかうときに出る笑いの濁りもなく、言葉を選ぶ気配もない。だからこそ理解しにくかった。

「仕事だろ。金も受け取ってるんじゃないのか」

「前金はもらってます。返せばいいと思います」

「返したら済む話なのか」

「依頼人が納得しない場合は、少し揉めるかもしれません」

「少しって何だ」

「私を殺しに来るとかでしょうか」

雛菊は天気の予報でも口にするように答えた。その時、倒れていた男の一人が身体を動かし、落ちていた武器へ手を伸ばした。継真が気づくより早く、雛菊の視線だけがそちらへ滑る。彼女は銃を持った右手を上げ、男の指先から数センチの床へ一発撃ち込んだ。

「動かないでください。今、大事なお話をしてますので」

声音は変わらなかった。男は青ざめ、伸ばしかけた手を引っ込める。雛菊はすぐ継真へ顔を戻し、途切れた会話を再開するように微笑んだ。その切り替えのなさに、継真は喉の奥が冷えるのを感じた。雛菊にとって脅威へ銃を撃つことと、好きな相手へ自分を説明することは、同じ一続きの日常なのかもしれない。

「お前、殺し屋なのか」

「はい。フリーです」

「高校生で?」

「高校生なのは学校で、殺し屋なのは仕事です」

「両立する言い方じゃないだろ」

「でも両方やってます」

雛菊は心底不思議そうだった。継真はそれ以上そこへ突っ込むのをやめた。常識を共有している前提で話せる相手ではない。それでも、少なくとも彼女が何を目的に動くのかを知らなければ、この場から離れることさえ危険だった。

「誰から俺を殺せって頼まれた」

その質問には、雛菊が初めてわずかな間を置いた。継真はその沈黙を見逃さなかった。何も考えずに全部話す人間なのではなく、話さない線引きだけは存在している。

「依頼人の情報は言えません」

「そこは守るのか」

「仕事なので」

「俺を殺す仕事は今やめたんだろ」

「でも、やめるまでは仕事でしたから」

継真は思わず息を吐いた。理屈が通っているようで、どこか根本がずれている。依頼対象へ惚れたから殺さない。しかし依頼人の情報は仕事として守る。本人の中ではおそらく何の矛盾もないのだ。

そのとき、雛菊の手にあるスマートフォンが震えた。短い電子音が倉庫の壁へ反響し、彼女は画面を見て「あ、ちょうど依頼人です」と言った。継真が止める間もなく通話へ応じる。

「はい、洲脇です」

電話の向こうから低い声が漏れた。内容までは聞き取れないが、男の声らしい。雛菊は継真の目の前で平然と頷き、「対象は見つけました」と答えた。

継真の肩へ自然と力が入る。雛菊が今ここで何を話すかによって、自分の居場所も状況もさらに相手へ渡る。ところが彼女は続けて、ひどく明るい声を出した。

「でも、好きになったので依頼を中止します。前金は返しますね」

電話の向こうで何かが怒鳴られた。静かな倉庫の中では、声の大きさだけなら継真にも分かる。雛菊は耳から端末を少し離し、相手が話し終えるのを待つように数秒見つめてから、また耳へ戻した。

「はい。聞いてます」

再び怒声が続く。雛菊は困った様子もなく、空いた左手で自分の髪の先をいじった。

「契約違反なのは分かります。でも好きな人を殺すのは嫌です。別の人なら相談できますけど、継真さんは無理です」

継真は思わず彼女を見た。自分はまだ名前を教えていない。その違和感を問いただすより先に、電話の声がさらに大きくなる。

「前金、今日中に振り込みます。手数料も私が払います。それでは」

雛菊は相手の返答を待たず通話を切った。画面へ視線を落とし、何かを確認したあと、何事もなかったようにポケットへ戻す。継真は数秒黙ったまま彼女を見つめた。

「今ので終わったと思ってるのか」

「依頼は終わりましたよ」

「相手は怒ってただろ」

「かなり怒ってましたね」

「お前を消そうとする可能性は」

「あると思います」

それでも雛菊の表情は変わらない。継真はそこで、この少女にとって仕事上の信用や命の危険が軽いのではなく、優先順位そのものが異常なのだと理解し始めた。受けた依頼を完遂することも、裏社会での評判も、自分の命も、今生まれたばかりの感情より下へ置かれている。

「どうしてそこまで簡単に決められる」

「簡単ではなかったですよ」

初めて、雛菊が少し考える顔をした。胸元へ指先を触れ、さっき苦しくなった場所を確かめるように押さえる。

「今まで、誰かを見てこんなふうになったことありません。息が苦しくなって、心臓が速くなって、いなくなったら嫌だと思いました。だからたぶん、すごく大事なことです」

「会って何分だ」

「時間で決まるんですか?」

問い返され、継真は言葉に詰まった。雛菊はさらに考え込み、「一時間待ったらもっと本物になります?」と尋ねた。継真はこめかみが痛くなってきたが、笑う気にはなれなかった。

雛菊がどれほど常識外れでも、彼女が今しがた自分を殺さないと決めたから生きている。その事実は変わらない。同時に、心変わりすれば再び標的へ戻る可能性まで考えてしまう。好意を向けられている安心より、その好意の基準が理解できない恐怖のほうが大きかった。

「ところで」

雛菊が不意に顔を近づけたため、継真は半歩下がった。彼女の琥珀色の瞳が頬の傷へ向く。

「そこ、痛いですか?」

「気にするほどじゃない」

「さっきの人がやったんですよね」

雛菊の声は変わらない。けれど視線だけが床にいる男たちへ移り、右手の銃がわずかに持ち上がった。継真はその動きを見て、反射的に彼女の手首へ手を伸ばしかける。

「もういい」

「でも継真さん、血が出てます」

「これ以上やる必要はない」

雛菊は数秒だけ継真を見つめ、それから素直に銃を下げた。「分かりました」と答える声には不満さえなかった。ただ指示されたことを一つ覚えたように見えた。

継真はそこで、また自分の名前を呼ばれたことへ気づいた。今まで会った覚えはなく、自分から名乗ってもいない。依頼資料に名前が載っていた可能性もあるが、確認せずに流していい違和感ではなかった。

「待て。何で俺の名前を知ってる」

「あ」

雛菊が目を丸くした。

「まだ教えてもらってませんでしたね」

「だから聞いてる」

「さっき社員証で見ました」

彼女は継真の胸元を指した。夜勤用の作業着のままなので、首から社員証が下がっている。逃げる途中で裏返っていたカードを、雛菊は戦闘の最中に見たらしい。

「鵜飼原継真さん。十九歳なんですね。私より一つ上です」

「勝手に見るな」

「好きな人のことは知りたいので」

「その理屈で個人情報を拾うな」

「じゃあ今度から聞きます」

会話のたびに疲労が増していく気がした。しかし、その奇妙なやり取りを続ける時間は突然終わった。雛菊が笑ったまま顔だけを倉庫の外へ向け、継真より一拍早く周囲の変化を拾った。

遠くからエンジン音が聞こえた。最初は港を通る大型車両の音に紛れていたが、すぐに一台ではないと分かる。重さの違う複数のタイヤ音が、倉庫街へ入ってくる。継真が顔を上げた瞬間、雛菊の表情も変わった。笑みそのものは消えていないのに、視線だけが倉庫の出入口へ鋭く向く。

「車、三台くらいです」

「分かるのか」

「音が違います。さっきの人たちの車じゃないですね」

雛菊は耳を澄ませ、数秒後に追加した。

「一台、向こうへ回りました。出口を塞ぐつもりかもしれません」

継真の背筋へ冷たい汗が流れた。倒れている男たちの仲間なのか、それとも雛菊が電話で依頼を断ったため新しく差し向けられた人間なのかは分からない。どちらにしても、ここへ留まる選択肢はない。

彼は腕の中の黒い鞄へ目を落とした。これさえ捨てれば終わるのではないかという考えが一瞬浮かぶ。だがすぐに、自分の名前と顔がすでに複数の人間へ渡っていることを思い出した。鞄だけ置いて逃げても、内容を見たかもしれない人間として消される可能性は残る。まして会社側が自分を売ったのなら、戻る場所さえ安全ではなかった。

「それ、すごく大事な物なんですか?」

雛菊が鞄を見て尋ねた。

「分からない。中身を見るなって言われただけだ」

「捨てます?」

「捨てて助かる保証がない」

「じゃあ持っていきましょう」

あっさりした答えだった。継真が彼女を見ると、雛菊はすでに銃の状態を確かめている。迷いのない手つきで弾倉を確認し、パーカーの内側から別のものを取り出して腰へ収めた。その動作は、先ほど恋に気づいたと騒いでいた高校生のものではない。

「お前も狙われるぞ」

「そうですね」

「俺に関わらなければ、少なくとも今よりは面倒じゃなかっただろ」

雛菊はそこで手を止めた。継真を見上げ、心底意外なことを言われたように瞬きをする。その顔には、自分が逃げるという選択肢を一度も考えていなかったことがそのまま表れていた。

「でも、関わらないのは嫌です」

「何で」

「好きですから」

同じ答えが返ってきた。今度は継真も言い返さなかった。外で車のドアが閉まる音が連続し、そのあと複数の靴音がコンクリートを踏む。近づいてくる人数は、さっきより明らかに多い。

雛菊は継真の前へ一歩出た。細い背中が視界を遮り、黒い髪がパーカーの上でわずかに揺れる。銃を持った右手は下げたままだったが、身体の重心だけが静かに変わっていた。たったそれだけで、さっきまで話していた少女と同じ人物なのに、空気が別のものになる。

「継真さん」

「何だ」

雛菊は半分だけ振り返った。倉庫の外から差し込むライトが横顔を照らし、琥珀色の瞳が一瞬だけ明るく光る。その顔には恐怖も緊張もなく、むしろ嬉しそうな笑みが戻っていた。

「お名前、さっき社員証で見ました。大好きです。なので後ろにいてください」

「さっきから勝手だな、お前」

継真が低く返すと、雛菊は「はい」と楽しそうに頷いた。その直後、倉庫入口の鉄扉の向こうで靴底が擦れ、何人もの足音が左右へ分かれていく。継真は黒い鞄を強く抱え、雛菊の肩越しに暗い入口を見据えた。

自分を殺すためにここへ来た少女の背中へ隠れるという状況ほど信用ならないものはない。それでも、今この場所で最も生き残る可能性が高い位置がそこだということだけは、継真にも分かった。雛菊の向こうで鉄扉がわずかに軋み、その隙間へ誰かの影が細長く落ちる。二人を囲む足音は、もう止まらなかった。

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